アニメとゲームのレビューBlog
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2007/10/27
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日本の近代アニメの源流の一つは手塚治虫の「鉄腕アトム」であると思うが、人造メカが人類を守るために悪と戦うというパターンは初期の「鉄人28号」や「エイトマン」にも見られる。
アトムとエイトマンはヒューマノイド型ロボットであり、心の葛藤をストーリーに織り込ませて成功した。
さらにアトムは、手塚の描くキャラクターの中性的で弱いタッチのセクシャルさが成功の一因だろうと思う。
アトムの米国公開時に散々言われた「破壊・暴力的」とは、プロテスタントの多い米国の宗教性に根ざす意見だと思うが、もう一つ違った面からみれば、西洋童話をモチーフに毒も薬も排したディズニーアニメを見慣れた米国人には、手塚の表現はショックであったのだろう。

ここで詳しく語るつもりは無いが、ディズニーと手塚に共通するのは夢の王国でも未来への夢でもなく「アニメーションの産業化」であり「アニメーターの酷使」である。
そしてディズニーの限界は反共辣腕経営者であったことであり、手塚の限界は漫画家であったことだと思う。

やがてロボット物は自律型から、操縦者を乗せて主人公も操縦者が中心になる。
一例をあげれば「機動戦士ガンダム」だが、アムロのことを「なんてヒステリックな主人公なんだろう」と思った記憶がある。機械として兵器としてのロボットだけでは多彩な感情表現は難しかった。
巨大化や合体などのバリエーションを加えながら、途中「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ界を焦土化した作品を経て、現在に至っている。

さて、筆者が思う近代日本アニメの源流のもう一つは、赤塚不二夫「ひみつのアッコちゃん」にある。
赤塚の着想がアメリカのホームドラマあたりにあったのかもしれないが、一見ふつうの女の子がコンパクトに呪文を唱えると変身し、周囲にある問題を解決する。

少女の変身願望を見事にキャッチアップして成功したと思われる分野だが、そう簡単ではないと思う。いつの頃からなのか、ある方向性が見え始める。
アッコちゃんは家庭や町内の問題を解決することで視聴者の感動を得られていたが、解決対象と敵が徐々に強大化する。
財宝を狙ったり、国を攻めてきたり、地球制服を企てたりと敵はエスカレーションする。少女たちは身につけた魔法と道具を繰り出し、チームを作って敵と戦い始める。
実写の東映魔法少女物然り、「美少女戦士セーラームーン」や「東京ミュウミュウ」など数多い。
宮崎駿もラナやナウシカを酷使してる(笑)
これほどにまで少女たちが戦わなくてはならないのは、そこに視聴者のニーズがあるのだろう。
小さい女の子より、大きなお兄ちゃんを視聴者に想定している部分も多い。

そこで、先日一挙放送されたアニメ版「最終兵器彼女」(高橋しん)だが、従来通りに少女を変身させたり戦わせるだけでは飽き足らず、少女自身を兵器化してしまった、本当に最終の設定である。
言い換えると、大きな二つの潮流を統合する近代日本アニメの集大成作品だ。
自律型ヒューマノイドのようでアトムの時代に先祖がえりしたようにも見えるが、兵器へと変身した少女「ちせ」の本質は破壊であり、良き時代の魔法少女たちのように大団円を迎える事はない。

シュウジとの不器用な愛の記憶が「ちせ」の葛藤を生み、ラストを迎える。
最終話でシュウジが立つ荒野は破壊された地球なのか銀河の果てなのかわからないが、彼と彼の記憶にだけ残った「ちせ」には平穏が訪れたようだ。

大破壊のあとの平穏と孤独。
諸星大二郎暗黒神話」を彷彿とさせるラストシーンに感涙。
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